3月11日14時46分。
地をえぐるかのような巨大地震は、想像をはるかに超える津波を引き起こし、一瞬で数千の命を飲み込んだ。宮城、岩手、福島の人々が悲劇の大災害に悲痛な叫びをあげる中、安全な場所にいる多くの日本人が、ある種喜劇とも呼べる躁状態に我を忘れ、インターネットを使ってデマを拡散し続けた。誰もが情報発信できる魔法の道具は、一瞬にして、悪臭漂う汚物を垂れ流す伝染病の感染源へと姿を変えた。いや、単に今まで隠されていた本当の姿を剥き出しにしただけなのかもしれない。
特に糞を煮詰めたかのように、最悪のツールであることを露にしたのは、ユーザー数が1000万人を超えるソーシャルメディアの雄twitterだ。有益な情報はその数十倍、数百倍もの情報源不確かな嘘に押し流されていった。
震災から一ヵ月半が経過した今、原発災害という新たなパニックと共に、ソーシャルメディアは、ますます私たちに秘められていた異常性をあらわにし続けている。誰もが記者になりうる開かれたメディアがもたらす自由な社会、それは誰もが対等に情報を共有しあえる夢のような平等社会ではなかった。その多くが、善意から、吐瀉物のような情報が拡散され、その悪臭とグロテスクさに、五感を閉ざす社会。また自由の名の下に、詐術に長けたものが詭弁を弄し、権力を握る社会だ。
今私が暮らしているのは、ハクスリーやオーウェルも想像しなかったディストピアだ。前世紀の小説家の思い描くアンチユートピアが、ソ連やナチス政権下のドイツなど、独裁政府に自由を奪われた世界のカリカチュアだったが、21世紀のそれは違う。私たちは驚くほど自由だ。しかし、満員の映画館で「火事だ!」と叫ぶ自由は許されるのだろうか?